「まちづくり」という言葉は、雑誌「都市問題(1952)」で歴史学者の増田四郎が「町つくり」と記したことが初出と言われています。60年代に入り、近代都市計画に対する反省が世界的になされていく中で、従来の官主導のトップダウンの都市計画手法ではなく、ボトムアップの自治形成、および市民が主体的に関わる計画づくりが目指されていきます。そうして70年代に、革新自治体を中心に「都市計画」に代わる言葉として「まちづくり」が使われ始め、市井に広がっていきました。
一方で、都市計画における市民へのまなざしは、戦前にすでに見られていました。例えば、都市美運動を牽引した橡内 [1] は、1927年9月の岩手日報で「国の定める『都市計画法』を適用しさえすれば必ず合理的な優良な都市が実現するものと思うのは早計に失する。…やはり、市民諸君の愛市心にまち、真に自己の住む町をよいものにしたいという誠意から、常に世論の形をもって、実行機関を把握しておる当局を鞭撻し、当局もよく市民の声を聴き、あまねく衆知をいれて、一面に欧米都市の進歩せる経営方法を参考とし、他面によく己の都市の民情風土等を斟酌して最も合理的なプランをたてねばならない」と綴っています。さらに、農村における生活改善運動や部落解放運動等、都市計画とは別文脈においてもボトムアップの「まちづくり」に連なる潮流が、確認できます。
そうした流れが70年代以降に「まちづくり」として束ねられていった背景には、戦後の急激な環境変化を経て高度経済成長期を経験した日本において、「公害」に代表されるように、市民の身近な暮らしが蔑ろにされる事態が生じたことが大きく影響しています。世界的にもベトナム戦争の反戦運動等が顕在し、市民が自ら声を上げる機運を後押ししていきます。また、地域開発のあり方に疑義を唱えたシューマッハーが「Small Is Beautiful(1973)」を著したのもこの時期です。氏が提唱した「内発的発展」や「地域主義」に連なる思想は、過疎地の活性化を目指した「村おこし」等にも強い影響を与えます。都市部においては、旧来の町内会等に代わる小学校区を単位とした「コミュニティづくり」が模索されていき、そうした制度や運動に背中を押されるかたちで「まちづくり」の概念が形づくられていきました。
その後「まちづくり」は、さらに多様な様相を帯び、結果的に現在は、都市計画分野だけでなく、保健医療・福祉・観光等、市民の暮らしに関わる全ての領域を包含し、多主体で協働しながら身近な暮らしの課題を改善していく概念として用いられています。平仮名による「まちづくり」は、海外で Machizukuri と称されるように、多様な解釈を促しながら日本独自の概念として昇華しました。今となっては定義すら困難である「まちづくり」は、その解釈が市民に委ねられているという意味において、まさに「市民の言葉」として生き続けていると言えるでしょう。
[1] 中島直人他(2001)「都市美運動家・橡内吉胤に関する研究」都市計画論文集Vol.36
参考:日本建築学会(2004)「まちづくりの方法」丸善株式会社
九州大学 専任講師
福祉とデザイン 理事
社会福祉士
田北雅裕 TAKITA Masahiro
一般社団法人10分ランチフィットネス協会
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